北九州市小倉区にある小倉城をご存知ですか?
天守閣の4階部分に屋根のひさしがなく、5階部分が4階よりも大きい、南蛮造り、あるいは唐造りと言われている造りのお城です。天守閣の広さは日本一とも言われていますね。
現在の天守閣は、昭和34年に再建され平成31年に内装がリニューアルされたものですが、南蛮造りは築城当時に取り入れられたものだったそうです。参考元:小倉城公式ホームページ
このお城を築城したのは、細川忠興(ほそかわ ただおき)、細川ガラシャの夫です。
築城が始まったのは1602年(完成は1609年)、細川ガラシャが亡くなったのは1600年。この事実だけからは、ガラシャは小倉には滞在していないことになりますね。
けれど、造りが南蛮造りということで、何らかの関係があるのではないかと疑ってしまいます。細川忠興とガラシャ夫妻について調べてみました。
細川ガラシャ、明智光秀の娘に生まれて
細川ガラシャが生まれたのは1563年、福井県。父、明智光秀が朝倉家に仕えていたころと言われています。三女(次女との説もあり)ということですので姉は二人、可愛がられて、教養もしっかり授けられて育ったのではないか、と想像できますよね。
名前は、”たま” 玉、珠、と漢字で書かれている本もありましたが、ここではひらがなの”たま”とします。
明智光秀が能力を認められて、どんどん出世していきます。
そして、1578年おなじ年の細川忠興と結婚します。父の盟友細川藤孝の嫡子との婚姻、15・6歳での婚姻は、当時は一般的だったのでしょうね。
子供にも恵まれ、二人はとても幸せな日々を過ごしていたのではないでしょうか。
ところが、本能寺の変が起きてしまいます。
明智光秀は、細川藤孝に自分の味方をするように懇願しましたが、藤孝はさっさと剃髪して幽斎と名乗り隠居、細川家は参戦せず、たまは幽閉されてしまいます。
本能寺の変が明智光秀の思惑とおりにならなかった理由の一つにあげられることもあるくらいの決断。
けれども、この判断のおかげで、細川家は存続し、忠興もたまも命を落とすことなく過ごすことができました。
明智家の人々は、主君を討ったことを咎とされ皆処刑されてしまったので、19歳でたまは父も母も姉も亡くしてしまいます。
そして、幽閉はその後も豊臣秀吉の勧めで解かれるまで2年近くも続きます。その間に夫忠興は側室を持ってしまっていました。
細川ガラシャはキリスト教と出会う
たまは、ひとりぼっち。
幽閉が解かれてからも、忠興はたまが外に出ることを禁じていました。たまの美しさに秀吉が目をつけることを不安に思ったのではないか とも言われていますが、忠興は嫉妬深い性格だったのかもしれませんね。
頼れる人はいない。城の外を出歩くこともできない。
そんな中で、侍女からキリスト教の話を聞きます。宣教師に会ってみたい思いはだんだん強くなっていきます。
忠興が戦に出て留守になった時、たまは城を出て宣教師に会いに行きます。名乗ることもできない、人目についてはいけないという秘密のうちに教会にでかけ、キリスト教に魅了されました。
忠興が城にいる間は、外出することはできません。その上、秀吉が大名がキリスト教の信者になる時には秀吉の許可がいると言い出しました。1587年バテレン追放令です。
信仰が深まっていったのは、書簡のやり取りを通してだったのでしょうね。周りにいた侍女たちも信仰を支えるのに役割をはたしたと考えられます。
というのも、城の外に出ることができないたまがガラシャ(Garatia,ラテン語で神の恵み)という洗礼名を授けられたのは、侍女から洗礼を受けたと考えられているからです。
忠興は妻がキリシタンであったことを本人から聞いて、知っていたと思われます。
細川ガラシャは人質となることを拒む
豊臣秀吉崩御の後、徳川家康が勢力を伸ばしていきます。忠興も家康側についていました。
豊臣の世でなくなることを恐れた石田三成は、家康が上杉征伐にでかけた隙に、家康についていた武将の奥方たちを人質にとり豊臣家を守ろうと考え、奥方たちを迎えに行きます。
細川ガラシャは、人質になることを拒みました。
武力を使うと三成から脅されたガラシャは、侍女たちを城の外に逃します。そして、捕らえられるよりは神の御下にいくことを選び、城に残っていた忠興の家来に胸をついてほしいと頼み、その願いは叶えられました。
その家来は、自刃し城に火をかけました。
このことに驚いた三成は、武将の奥方をむやみに集めることをやめます。
ガラシャは、忠興と細川家を守り、侍女やほかの奥方たちを災難から守ったわけです。
このことを知った忠興の悲しみと、妻に対する感謝の思いはいかばかりだったでしょうか。
まとめ
細川ガラシャは、
- 明智光秀の娘として生まれ、
- 謀反人の子として生きることを余技なくされ、
- キリスト教と出会い、洗礼を受け、
- キリスト教の教えに従って生ききった
人でした。
その人となりは、宣教師たちから伝わりオペラとなって世界の人々に知られることとなりました。心のうちはわかりませんが、後世にまで語り継がれるなどとは思ってもみなかったことでしょう。
本能寺の変から18年間、幽閉と城にもどってからも外に自由に出歩かなかったことを考えると、肌は白かったことでしょう。美しかったことは想像に難くない。
細川忠興は、ガラシャが亡くなった後に築城した小倉城の天守閣を南蛮造りとし、南蛮との貿易を盛んにしキリスト教を容認していたと伝わっています。妻が信じていたものを弾圧しようとはしなかった。
細川忠興ガラシャ夫妻は、心の底では通じ合っていて、お互いを思いやっておられた。
ほぼ400年後の”いいふうふの日”に思いをめぐらせるには、素敵なご夫妻でした。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。